you are my sunshine

3人と1匹との大切な時間。ワタシのための記憶メモ。

レールの話の続き。

さっきのは親と子が一番の成功例だな。

親はうまく運んだし、なんだかんだ子供は素直だった。

途中、脱線する子もいれば、

銀河鉄道999のように、あれ?レールがない⁈なんてこともあったり、、長い長いトンネルが続いてたり、現実的には大半がそうなのではないか。

その都度、分岐点があり、自分で選択を迫られる。

 

わたしの場合は、昭和の子だくさんの1人だから、もちろん一人一人にレールなんて敷かれない。

一番上の姉は、勉強もできたし、習字もそろばんもお菓子作りまで得意で、頭の良い器用な人。

二番目の姉は、小さい頃からバレエを習っていて、発表会や、コンクールやら、、スター的存在。

三番目のわたしは、、、わたしは?、、わたしは?

ずっとそう思ってた。

何か見つけなくては、なにかやらなくちゃ、

 

小さい頃から、父が財産残さない代わりにやりたいことをみつけなさい。それにかかるお金は惜しまない、、そういう教えだった。

だから、一層、、わたしは?わたしは?て。

小学生の頃は、好きだった担任に憧れ学校の先生になりたかったけど、、国籍柄、先生にはなれないよと父に言われ、あっけなく終わった。

それでも何か名のある仕事をしなくてはと決め込んでた私は、小さい頃から絵が好きだったと、よくある単純パターンの動機でデザイナーになる!と決めてた。絵ばっかり描いてた。好きだけど、大してうまくなかったのに。。小学生までは勉強も嫌いじゃなかったけど、中学になるとより難しくなって、ちょっぴり憧れの塾通いデビューは中2の夏だったけど、すでについて行けなかった。。そうなると、高校受験なんて、行ける学校限られてきて、高校行ったら、美大に向けて予備校通い、、美大は勉強だけでなく実技も大変で毎日6時間座りっぱなしでデッサンはザラだった。2度の美大受験に失敗し、、財産を残さないと明言してた父は、その言葉の通り財産残さず、最初の美大受験の前日になくなった。

わたしは結局、専門学校に進み、デザイナーになった。なったけれども、デザイナーとしては長く続かなかった。

専門学校時代にりょうちゃんと出会い、それからあさひが生まれた。

常に、わたしは?て問いかけてたわたしは育児におわれて自問自答しなくなった。

結局わたしのデコボコな心もとないレールはあさひと出会うべく続いていたんだ。

人生の幸か不幸か、ここがゴールなのかは、結局

わたしの満足次第。

りょうちゃんと出会うためだったんだと思いたいけど、今は心無い一言に傷つき、喧嘩中なので、りょうちゃんとの出会いは、あさひに会うべく通過点に過ぎないということにする。

デザイナーには一応なれたし、仕事としては使えてないけど、生活のなかではわたしのデザインは息づいてる。

子育てをしながら、そう思う。

わたしがやりたかったのはコレ!て瞬間が。

でもやっぱり未完成なわたしが無からの育児なんて完璧にできるわけでなく、常に迷い迷いで、学んだり、泣いたり、たくさん喜怒哀楽の日々。

だからあさひに敷いてやったレールだって、本当はどっちに向かっているのか、道は合っているのかも自信がない。あさひがもう少し今より物事を判断できるようになったら、自分で軌道修正すればいいかな、、所詮そんな感じ。

あさひがこれで良いと思えるゴールまで続く。

そのまっ只中は辛く、この世の終わりかと何度も思うこともあったけど、、そう簡単にこの世は終わらない。夜明けの来ない夜はないさ。

止まない雨はない、、、そう、過ぎて行くのだ。

過ぎたら、みんな過去なんだ。

終わり良ければ全て良し。

これでいいのだ。(バカボンパパ風に。)